「未来の麻雀」ブログ

同人サークル「フライング東上」の麻雀漫画復刊レーベル「未来の麻雀」のブログです

志村裕次氏インタビュー

当サークルで年に3回刊行してる同人誌『麻雀漫画研究』シリーズでは、毎号1人~2人、麻雀漫画関係者(漫画家・原作者・編集者等)へのインタビューを行っています。

で、このたび、Vol.4(2012年12月発行)で掲載した故・志村裕次氏へのインタビューを公開いたします。

志村氏は1949年福島県東白川郡生まれ。法政大学在学中に望月あきら池沢さとしのアシスタントを務めた後漫画原作に進み、別冊少年ジャンプ71年3月号掲載の池沢さとし「明日を追って!」の原作でデビュー(咲原ゆういち名義)。 70~80年代には『風の雀吾』『麻雀鳳凰城』『海雀王』などを代表に数多くの麻雀漫画を発表しました。麻雀漫画以外にも、一森純直、間昼野ジョージ、ムラサキなど数多くの名義を使って幅広いジャンルで原作を書き、また、本名の松本裕二や夏目秀樹といった名義で架空戦記を中心に小説も執筆したマルチな職人です。インタビューからわずか1年後の2013年12月に病気のため亡くなられました。

功績の割にネット上で言及されることの少ない方ですので、なんと言いますか、志村裕次という作家の足跡が世にもう少し残ればいいなと思って本稿を公開する次第です。志村氏、13年6月にブログを開設し、これまでの人生について書こうとしていたようでして(http://ameblo.jp/yuji-shimura/)、それが書かれていれば一番良かったのですが……。

 

なお、インタビューについて紙でも持っていたいという方や、金を出してやってもいいという方がいらっしゃいましたら、↓をお願い致します。同人誌版は注釈や図版も入っております。

麻雀漫画研究Vol.4 - フライング東上のなんか - BOOTH(同人誌通販・ダウンロード)

また、氏が関わった麻雀漫画作品については↓をご参照ください。

麻雀漫画wiki - 志村裕次

 

以下、インタビューです。

 

麻雀漫画原作者になるまで

――今日はよろしくお願いいたします。まずは、原作者になられるまでの過程からお伺いしたく思います。
志村 わたしは福島県の白河生まれなんですが、地元の白河高校で読書三昧の日々を送ってました。まず学校に朝早く来て本を2冊読むんですよ。図書館が開いたら3冊借りて、休み時間を利用してそれを読んで、帰る前に4冊借りるんです。で、それを家に帰って読む。この繰り返しで。
――それはすごい量ですね。
志村 でも、担任に「お前は全校で2番目に本を借りてる」って言われて、これより読む奴がいるのかとびっくりしましたね。何にしても、とにかく小説家になりたかった。中学生のころから大学ノートに小説書いてましたし。
――最初は小説志望だったんですね。
志村 で、進路を考えなければいけない時期になって、就職してしまったら小説家の夢は絶たれるだろうと思ったんですね。日々の仕事で時間がないだろうから。白河高校は受験校でしたし、ここは絶対大学に行って、自由な4年間のうちにものになろうと思ったんです。それで法政大学に入りまして、入ったらもう学校は行かない(笑) まあ、正確には、行かなかったというより、当時はもうゲバでしたから。
――ああ、70年安保の学生運動で……。
志村 法政大学ってのは有名な白ヘルですか、学生運動じゃもうメッカでしたからね。バリケードがはられてて、どっちにしろ行けなかったんです。授業も中止でしたから。それをいいことに小説を書いてたんだけど、福島の田舎から出てきた身で、どうしたら小説家になれるかがぜんぜん分からないんですよ。で、そのころは、漫画も結構読んでたんです。『あしたのジョー』とか『巨人の星』とかの時代でしたが、「野球やったからってどうだってんだ」みたいに思ってて(笑)、あまりそのあたりは好きじゃなくて、少女漫画ばかり読んでました。小説でも人間の精神的なものを書きたかった身なんで、少女漫画での男女のアヤとかそっちのほうが自分にとっては勉強になったんです。とにかくそうやって少女漫画を読んでる時に、ふと、小説じゃなくて漫画でも物語に変わりはないんだから、漫画家になればいいじゃないかと思い立ちまして。それで、夏の日に漫画を17枚くらい描いたんです。
――原作ではなく漫画を描かれていたんですか。
志村 ええ。その頃日暮里に住んでたんですが、講談社が近かったんで『少女フレンド』編集部に持ち込んでみようと、都電に乗って、アポもなしで訪ねて。編集部のドアを開けてどうしたらいいか分からず立ち尽くしてたら、一番近くにいた人が「何?」て訊くから、「漫画を見てもらいたいんですけど」と言ったら「じゃあこっちへおいで」って小さな所へ通されて。それで見てもらったら開口一番「漫画ってのは万年筆で描くんじゃねーよ」って(笑)
――あ、そのあたりのことを何も知らない状態で描かれてたんですね。
志村 Gペンとかも一切知らなかったんです。で、ペン先とかも教えてもらって、一週間後もう一度描いていったら、その編集が「ちょうど今アシスタント募集してる漫画家がいるから」と紹介されたのが『サインはV!』の望月あきらさん。日暮里から先生が住んでる相模原に引っ越して、先生がアシスタント5・6人抱えてたからそのアパートに住んで、それがこの世界に入るきっかけだったんです。
――なるほど。『1979年版 劇画・マンガ家オール名鑑』の志村さんの項目に望月さんのお名前が書いてあるのは、そういうわけだったんですね。
志村 まあ、アシといっても消しゴムとベタと線引きしか任されなかったんです。で、そこで一緒にアシをしてた池沢さとしと仲良くなって、そのうちに池沢くんが「俺、今度少年ジャンプでデビューして独立するから、一緒に来ない?」って言ってきて。「おう行くよ」と先生のところを辞めて、池沢さとしと高円寺に住むことになったんです。それで、池沢くんの原稿取りにきたジャンプの編集が、待ってる間に、暇だから「漫画見せてくれる?」とわたしに聞いてきて、こうしてジャンプとつながりができたんですね。で、見せたら、「君は漫画家辞めたほうがいいよ」って。そのころ20か21歳くらいだったんですが、その歳でこの絵じゃ後がないだろうと言われて。でもその次に「君はストーリーには才能がある。原作やってみない?」と言われて、なるほど、じゃあやりますってコロッと変わった。池沢くんが『別冊少年ジャンプ』で読切やるから、その原作を書くことになりました。
――それがデビュー作の「明日を追って!」ですか。
志村 これは、少女が睡眠薬を飲んで自殺しようとするのを、異端児のような主人公の少年が、助けもせずに、「じゃあ見届けてやるよ」と、ずっと見てる。少女が動かなくなった所で初めて、命とは何だ、何のために生きているのかと気づいて、少女を助けようとする、そういう話なんです。そしたらそれが結構評判よくて、編集が次は連載だなと。ただ、いきなりオリジナルでデビューというのは少し心配だから、原作をやるからこれを脚色してみてと、柴田錬三郎『ずうずうしい奴』を渡されて、それで少年ジャンプでデビューですよ。それも評判よくて、今度はいよいよオリジナルで連載やることになりました。逆井五郎氏の作画で、少年たちが集まって独立国を作るという「少年の国」というのをやったんですが、あまり評判よくなくて10回くらいで終わっちゃっいました。漫画はもう本当に人気次第だということが骨身に沁みて分かりましたね。
――そういえば、デビューされたころって、ペンネームが「咲原ゆういち」ですよね。
志村 そうです。
――由来は何かあるのでしょうか。
志村 何となく名前が美しいからつけたものです。ゆういちをひらがなにしたのは、漫画家の名前よりも目立つだろうと思ってわざと(笑)
――なるほど(笑)
志村 とにかくそれで、新しい連載企画を考えることになったんですが、ジャンプって企画書が編集長の机にうず高く積まれてるんですよ。新しい企画書はその山の一番下だから、自分の企画が読まれるまでには、1年か1年半くらいかかるんです。そうやってやっと手にとってもらっても、採用してもらえるかは分からない。しかも、ちょうどそのころ、付き合ってた女性が病気で亡くなったんですよ。それで担当に「今までに出した企画はなしで、彼女のことを書きたい」と言ったんです。そうしたらその編集が「雑誌は個人のためのものじゃない」って言ってきたんで、わたしも若かったから腹を立てちゃって、「じゃあいいよ、辞めるよ」って。編集部から出ていく背中に編集が「お前、後悔するぞ!」と言ってきたんですが、わたしは下駄をカラカラいわせながら、「後悔してもいいですよ」って一言残して出ちゃった。あ、下駄なのは、そのころ本宮ひろ志が下駄履きでいつも編集部へ来てると話題だったんで、売れるというゲン担ぎで、わたしも含めてみんな下駄で編集部へ行ってたんです。それはともかく、そこでジャンプと切れちゃったんです。
――それはまた……。
志村 それからしばらくは池沢くんのアシスタントをして生活費を稼いでたんですが、そのころは『麻雀放浪記』の影響で流行ってたこともあって、麻雀をやりまくってたんです。放浪記には本当に影響受けましたね。放浪記がなかったなら麻雀もの書けなかったと思いますよ。あれは麻雀+人生を包括した、麻雀の中に人生を放り込んだようなもので、麻雀ってこんなに奥が深いのかって、読んで本当に感激しましたね。麻雀って人生に似てるじゃないですか。ツモの後先とか。自分の作品でも気を入れたのは、そういう部分を大事に書いたつもりです。
――なるほど。
志村 そのころは石神井公園に住んでたんですが、石神井公園には吉沢やすみ井上コオ、それに当時は井上アシだった車田正美がいたんで、麻雀はそいつらとやってました。車田正美ってのは当時から凄かったです。根性あるんですよ。酒飲むぞって言って、飲み屋じゃなくて道路で一升瓶を開けるんですよ。普通の歩道で車座になって。そうすると、お前ら何やってるんだって歩行者とかが来るじゃないですか。すると車田正美が背中から木刀を取り出す(笑) 車田正美の部屋に行くと、裏地が真っ赤で龍の絵が入ってる長ランと木刀が下がってて、「これで朝鮮学校の生徒と高校時代はケンカしてた」って。そういうやつでしたね。とにかく、いつまでもそんなことしていられないんで、好きな麻雀の漫画原作を書こうと思いたって、「緑發殺人事件」っていうものを書いて秋田書店の『別冊プレイコミック』に持っていったんです。そうしたら、面白いからこれ載せましょうってすぐ決まって。その時の作画が、麻雀劇画の第一人者、北野英明さん。それが雑誌で一番人気みたいになっちゃったので、次の話も書こうとなったんです。
――ジャンプの時は咲原名義でしたけど、このころから「志村裕次」名義ですよね。これも本名ではないですけど、この名前にしたのは……。
志村 史村翔って原作者いるじゃないですか。本宮ひろ志のアシスタントだったんですけど、それが売れてきてた頃で、「ああ俺もこんなふうに売れたいな」と思って、でも史村をそのまま使うのはしゃくだったんで、似た名前の志村にしたんです。
――そういう理由だったんですか。
志村 裕次は本名由来ですね。
――他にも幾つかお名前使われてますよね。『雀鬼郎』は雑誌では「南部亮三」名義ですし。
志村 これは、この雑誌で2作も3作も書いてたんですよ。それで、同じ名前ではダメだって言われて、別の名義を使うことになりました。この名前は編集が考えたものです。
――吉岡道夫さんも、同じ雑誌で複数連載の時は違う名前使ったとおっしゃってましたね。
志村 社長とかから言われるらしいんですよ。同じ奴ばっか使ってるじゃないかと。
――なるほど。
志村 で、秋田書店の編集に「森義一さんの家で麻雀大会があるんだけど行かないか」と誘われて行ったら、そこに竹書房の編集者がいて「別冊プレイコミック読みましたよ。うちでも書いてくれませんか」って声をかけてきて、いよいよ麻雀漫画の道に入っていくわけです。結構評判よくて、フィールドが一気に麻雀漫画になってしまいましたね。
――単行本もたくさん出てますし、連載はもっと多いですよね。
志村 当時の中で一番力が入ったのが『牌の神話』ですね。これの後で、色んなところの編集者が、うちで書いてくれうちで書いてくれと電話をかけるようになってきたんです。
――日本文華社の『漫画ジャンボ』連載ですよね。
志村 そうですそうです。
――確かにこれの後で一気に作品が増える感じですね。
志村 森さんも力入ってましたしね。
――咲原ゆういちではなく志村裕次をメイン名義にしたのは、『牌の神話』がヒットしたからそちらに一本化ということでしょうか。
志村 そうですね。

麻雀漫画作品たちについて

志村 で、一番評判良かったのは『風の雀吾』ですよね。
――今でも一番有名だと思います。
志村 これ、ある日新宿に向かう途中、電車の中で隣の女子高生二人が「風の雀吾読んだ?」って喋ってたんですよ。「ほんとかよ!?」って思いました。
――それはビックリしますね。
志村 どうも、ミニコミ誌みたいなので雀吾が紹介されてたんです。
――みやぞえ郁雄さんのインタビューの時に調べたんですけど、『漫画ブリッコ』とか『ぱふ』とかで紹介されてたみたいですね。
志村 結局、超能力っていうか、麻雀漫画らしからぬ麻雀漫画ということで注目されたんでしょうね。

――『海雀王』についてもお聞きしたいです。復刊されるだけあって有名ですよね。瀬戸を盗るってスケールの大きさはあまり他に麻雀漫画で見ない作品ですし、雀吾、鳳凰城に比べても麻雀のウェイトがちょっと強いのも特徴かと思いますが。
志村 これは今読んでも、自分でも面白いと思います。これやった時、実業之日本社の編集が、自分で雀荘もやってて、自分の雀荘に最高位戦のメンバーを使ってたんです。その線で、最高位戦の人らと知り合ったんですが、わたしの生き方がうらやましいと言われましたね。こんなの好きに書いて。しかし、どうしてこういう作品をやろうと思ったのか、今でもよく分からない。わたしの場合、大体の作品は編集者との打ち合わせなしで、全部わたしが「こういうの書きます」ってやったんです。企画書を出すとかではなく、一回目をいきなり書いて、じゃあこういうのでと。当時わたしは売れてましたから、編集者もこうしてくださいとか言えないわけ(笑)。ただ、海雀王の編集者は定年間際のお年寄りで、すごく一生懸命でした。その人がストーリーの方向を大きく決めてましたね。
――あ、そうだったんですか。
志村 原稿を持っていくと打ち合わせになるわけですが、そこで次はどうしようかってわたしの意見を聞くより、こうやってこんな話でいきましょうよって提案してくる感じで。それをテープで録っておいて、それを基に書いてました。ただ、あっちで書きこっちで書きで締め切りに追われてたから、その場その場で話を進めたところはあります。一話一話を面白くして、ラストを衝撃的に書いて、「続く」と。あとで人物の関係とかを読み返して、「あ、これは決着をつけなきゃな」みたいに帳尻を合わせて……。しかし、大三と沼田はよく、どっちがどっちか分からなくなった(笑)
――そういう具合だったんですか。でも、その場その場にしては、雀吾なんかは伏線とか構成がしっかりしてると思うですが。
志村 その辺りのは、しっかり書かなくちゃいけないと思って書いたんですよ。1話めを書いた時に霊感が働くんです。これは良い作品だから先もちゃんと考えて書こう、と。オーラが立ちますから。『らーめんライス』もオーラが立った方です。『獏』もそうですね。他のはけっこう書きなぐりのも多いですけど(笑)
――ちなみに海雀王、復刊されたのは何かあったんでしょうか。
志村 いきなり編集から「今度復刊するので」って電話があって。
――前の単行本で入ってなかった最終回まで入って嬉しかったです。
志村 わたしも前の単行本で出なかった分は話を覚えてなかった(笑) ネットで見てたら、海雀王は全部読みたいって人が意外と多かったですよね。編集者もそれを見てじゃないですかね。
――そういうのはあるかもしれませんね。海雀王は80年台麻雀漫画の中でも、ネットとかで時々取り上げられたりして有名な方ですし。最近の麻雀漫画のアニメでも、「麻雀で瀬戸を盗っちゃる」って、海雀王のパロディなセリフがありました。聞いて、「あ、海雀王だ」って思いましたよ。
志村 渡辺みちおさんの名前も大きいですよね。
――確かに、「まるごし刑事の渡辺みちおが放つ」ってアオリにありますしね。

 

――森さんと組まれた作品で最後の方の「魔牌狩り」についてもお聞きしたいのですが。
志村 「魔牌狩り」は、わたし持ってます。
――切り抜きとかで持ってらっしゃるんですか。
志村 いや、雑誌の増刊形式で出てるんですよ
――そうなんですか! 増刊で何が出てるのかは調べてもなかなか分からないもので……。古本屋でもなかなか見ませんし。みんな捨てちゃうんですよね。
志村 それはそうですよね。
――古本屋で探してみたいと思います。森さんもすごく思い入れがあるとおっしゃってましたし、わたしも『ガッツ麻雀』をあまり見かけないせいで何話かしか読んでないのですが、すごく好きです。
志村 面白いですよ。
――森さんも、原作もらった時に「これは一味違うな」というのがあったので、気合を入れて描いた、とおっしゃってました。
志村 森さんの絵が違ってましたもんね。しかし、『ガッツ麻雀』はこの表紙だけ見ても売れてないなって分かるでしょう。
――末期に入ってるなというか、竹書房が一人勝ちするだろうなという感じはしますね。竹書房の雑誌は、比べると垢抜けてました。
志村 『哭きの竜』出したのが勝因ですよね。あれは麻雀やらない人でも知ってますからね。

 

志村 あと無敗の雀鬼桜井章一。あれも一つの時代を作りましたよね。
――そうですね。雀鬼といえば、志村さん、漫画の『雀鬼』に1巻だけクレジットされてますよね。
志村 自分で言うけど、あの1巻は名作ですよね。1話2話は私の原作じゃないんですが、人気が今ひとつ出なかったので私が呼ばれたんですよ。
――そういう流れだったんですか。
志村 そうしたら歴然と絵が違いますから、編集がビックリしちゃって。原作が変わるとこんなに変わっちゃうんですかと。それで、このままずっと志村さんで行きますと1巻分は私が書いたんですが、後に2巻3巻と出て、別の原作者じゃないですか。全然知らされていなかった。桜井章一さんサイドからの要請じゃないかと……。
――なるほど……。『雀鬼』は、志村さんがちょっと麻雀ものから離れてて、久しぶりの単行本でしたよね。
志村 芳文社で『女喰い』とかもやってた時期ですからね。
――これも、途中から途中までという感じですけども。
志村 これは、最初脚本をやってた人が担当編集と折り合い悪くて降ろされて、わたしが入ったんですよ。でも、『新・女喰い』になってしばらくしたら人気が落ちてきて、「志村さん悪いけど辞めてくれ」って。別な人に書かせるからって。非情な世界でしょ。

 

――『獏』についてもお聞きしたいんですが。
志村 獏は3巻しか出てないんですよね。
――出てるんですか!? 2巻までしか見たことが。近日発売という予告だけは見たのですが、現物は見たことがないんですよ。
志村 あ……2巻までかもしれない(笑)
――国会図書館とかにもこの頃の竹書房の本は入ってないんで、確認できないんですよね。
志村 これは、なんかたまに、続き読みたいって人をネットとかで見ますね。いいところで単行本が切れてるので。しかし、わたしも最後どうなったか覚えてないんですよ。佐多みさきさんが原稿は持ってるはずです。3年ぐらいやりましたから、単行本にすると5・6巻分ぐらいはありますかね。
――そうなんですか。佐多さんとの組み合わせっても珍しいですよね。
志村 佐多さん、麻雀ものを描くのは竹書房が初めてですよね。
――そうですね。 このころ竹書房は今までの麻雀漫画家とは別の方を積極的に使ってたなと思うんですが。
志村 そう、このころかな、竹書房の雑誌が売れなくなっちゃったんですよ。危機感を抱いて、既成作家を外して新しいのを、売れてる人を入れろって社長の至上命令だったんです。
――かわぐちかいじさんとか能條純一さんとか……。
志村 竹書房が引っ張ってきた最大のヒットは、これよりは後ですが、西原理恵子ですよね。あれはよく引っ張ってきたなと。彼女は竹書房に引っ張られたのが幸運でしたよね。
――あれから無頼路線を確立しましたね。
志村 西原理恵子と一回竹書房で麻雀したことあるんですよ。四暗刻単騎テンパって、後ろの編集者が背中つつくんです。結局、彼女が安い手で和了っちゃったんですが、後ろの編集者が「志村さん次の牌めくってくださいよ」っていうから、ツモる牌めくったら和了牌で大笑いしました。
――いかにも麻雀漫画みたいですね。
志村 それに、たぬっていう雀荘を出してるあの、山崎一夫さんとか、伊集院静ともつながりができて。西原理恵子が絵で伊集院静がエッセイ書いてる本が出てるんですよ。あれを愛読してるんだけどすっげえ面白いの。わたし、むかし日本文芸社が出してた雑誌で、騎手への取材をもとにした競馬もの漫画の原作を書いてたんです。で、栗東に取材しに行った帰りに、担当が「これから伊集院静と会うんだけど飲みませんか」って、その時は一人で京都を回りたかったんで断っちゃったんですが、今思えば行ったほうが良かったかなと。伊集院静のエッセイ読むと、あれはもう人格破綻ですよね。あそこまで行かないとものは書けないのかという。競輪なんかでも、一万二万の話じゃなくて、今日は札束をレンガのように積んだってそういう話ですからね。

 

志村 わたしの好きなのは『麻雀五輪書』なんですよ。これは人生と麻雀をくっつけた話で。
――その辺は、最初におっしゃってた「人の心みたいなのを書きたい」という気持ちがあったわけでしょうか。
志村 そうですそうです。要するに、小説家になりたかった時期に溜め込んだ、精神的なものを書きたいという気持ちが吹き出したという。それが麻雀五輪書。麻雀ってのはアクションじゃなくて精神的なやり取りじゃないですか。それが合ってたんですね。
――なるほど。
志村 わたしはこの頃新宿の雀荘に一人でふらりとよく入ってたんですけど、一つものすごく印象に残ってるのがあって。萬子の面清三暗刻テンパったんですよ。ドラが五萬で、そのドラを捨てきれずにいるうちに相手からリーチかかっちゃったんですが、そうしたらこっちも四暗刻単騎テンパイ。現物の一萬かなんかと五萬のどっちかを切るとなって、迷った末に安全牌の一萬切ったんですが、その場は結局流れちゃったんですよ。その時に後悔したんです。どうして勝負手なのに勝負に行かないのかと。ドラを切って勝負と行かなかったのかと。勝負手なら勝負じゃないか、オりてどうするんだよと。それが麻雀だろうと。麻雀の奥の深さをしみじみと感じましたね。人生にも通じるなと。あと、沢本英二郎くんとだったかな、読切でもう一つ人生と麻雀をからめたのがあって。
――それはどういうものだったのでしょうか。
志村 リーチって手が変えられないじゃないですか。女性のこともそれと同じだというような内容でした。「自分が好きな女性にリーチをかけられるかだ。それからどんなにいい女が出てきても手は変えられない。それを突き通せるかだ。リーチ一発、君に賭けました」って。その話を書いたら反響がすごくて、担当編集が、「すごいですよ志村さん。感動したってのがいっぱい来た」って。麻雀で人生を書くというのが水に合ってたんですね。
――それがこれだけの作品につながったと。
志村 そうです。だから中学高校と溜め込んだものがいかに大きかったかということですね。沢本くんにはまだ会ってない?
――沢本さんにもいつかお話を伺いたいと思っていますが、まだですね。

 

志村 懐かしい、『麻雀社員一通貫太』。宮本ひかる、この人は今いませんけどね。漫画家辞めちゃいましたよ。
――そういう方は多いですよね。
志村 職業病とも言えるヘルニアになっちゃって、入院してる間に私生活でも色々あって、ショックで漫画が描けなくなっちゃって、それっきりいなくなっちゃって……。北野さんもそうですけど、みなさんいなくなちゃった。
――葉原アキさんなんかも今どうされてるかがわからないですね。
志村 葉原さんとは、「麻雀やりながら不良に人生を説く」っていう話の「雀鬼先生」って作品があって、結構人気ありました。「お前はクズ牌かもしれない でもクズ牌だって、集めれば国士無双になるじゃないか」とか「配牌は悪くても、一つ一つを積み重ねていけば和了に結びつくんだ」みたいな感じの話で。
――70・80年代に志村さんと組んで麻雀漫画描いてた方たちの中で現役なのは、渡辺さんとみやぞえさん、村岡栄一さん、沢本さん、佐多さんくらいですかね。
志村 村岡さんも麻雀好きでしたね。
――村岡さんは最近はパチンコ漫画ですね。
志村 パチンコ漫画は元手がかかるじゃないですか。実際に打ってデータ取らなきゃいけないし。パチンコで原稿料がほとんど飛んでいっちゃうって言ってましたよ。そういえば、村岡さんを主人公にした漫画もありましたよね。
――『若者たち』ですか。
志村 あれはいい本でしたね。テレビにもなりましたよね。村岡栄一とわたしと葉原さん、あとは編集の人で、週に何度も徹夜で打ってましたね。そして翌日は競馬(笑)

組んだ漫画家についてなど

――北野英明・森義一・鳴島生と、70年台麻雀漫画家御三家全員と書かれてますが、組まれた漫画家さんで特にこの方とでとかありますかね。
志村 やりやすかったのは一番はやっぱり森さんですね。北野さんとか鳴島さんは一つの独特な個性を持った方だったから、色が濃すぎる。北野さんとやったときは、あまり人気が出なかったです。
――北野さんが今何をされてるのかが全然わからなくて。お話は聞いてみたいんですけれども。
志村 全くわからないですね。どこでどうしてるやらってみんな言ってますよ。北野さんは描き過ぎでしたよね。仕事選べばよかったんだよね。忙しい時は、編集がベッドに行かせないから、描きながら寝るみたいな状態だったって。そこまでして描く必要あったのかという話ですよね。それに、麻雀だと自分は売れっ子だという意識があったんだろうけど、車のキーを出して差し馬でニギって打ってたりしてましたからね。
――本当に麻雀劇画の世界ですね。
志村 狂ってましたね。鳴島さんは、もう漫画家やめたから言えることだけど、先生と呼ばれないと気分を悪くされる方だったから、編集も少し困ってましたね……。
――鳴島さんは数年前に亡くなられたそうです。
志村 そうですか……。鳴島さんの家で一度麻雀をしたことありますけど、超インフレでドラが次々増えていく、そういう麻雀やりましたよ。しかもチップがついてるからすごいことになりました。
――北野さんもそうでしたが、いかにも麻雀劇画を描いてる人の麻雀ですね。
志村 漫画家の麻雀だと、池沢さとしが麻雀狂いで、そこも超インフレ麻雀が毎週立ってましたね。雀卓が2つ3つ置いてあって、ちょうど『サーキットの狼』で稼いでた頃だったから、レーサー関係の人たちが集まってきて麻雀やってた。レートが凄かったですよ。ラス食うと15万とか20万とか飛ぶんですから。
――それは……さすがにちょっと大きいですね。
志村 見てたら、一人の人がもらったばかりの給料袋の封を開けてごそっと払ってて、これはやるもんじゃないと思いましたね。

 

――吉岡道夫さんとか吉田幸彦さんみたいな他の原作者さんとはなにかありましたか。
志村 付き合いはあまりなかったですね。我々はライバル同士って意識がありましたから、出版社のパーティーとかで会っても話さない感じで。編集者も会わせないですよ。
――漫画家さんとは交流があったけど、原作者さん同士ではそういうのがなかったというわけですね。そういえば、森さんが志村さんとは一口馬主みたいなのに一緒に乗ったとおっしゃってましたが。
志村 編集者が競馬狂いだったのでやりましたね。半口乗った覚えがあります。二着三着まではいったけど、勝てなかったですね。漫画家で仲良くしたのは、あとはみやぞえさんでしたね。
――みやぞえさんも、インタビュー行った時に、志村さんにお会いすることあればよろしくとおっしゃってました。志村+みやぞえは、雀吾とか鳳凰城とかがあって、黄金コンビという感じがしますね。志村+森コンビも印象が強いですが。しかし80年代は雑誌の数自体も多かったですよね。あれは何かあったのでしょうか。
志村 やっぱり売れたからですね。
――出せば売れるみたいな感じだったんですか?
志村 ええ。でもそれで濫作が始まっちゃって、売れなくなっちゃった。
――なるほど。粗製濫造みたいになって一気に人気がなくなったと。
志村 そうそう。それに描く漫画家も、新しい人よりも同じ人を使うみたいになって、どの雑誌見ても同じ人が描いてるのが良くなかったでしょうね。

その他の漫画作品や小説など

志村 『らーめんライス』、渡辺さん、これも懐かしいなあ。
――わたし、『独身アパートどくだみ荘』とか、そういう系譜の作品が好きなもので、だから『らーめんライス』もすごく好きなんです。
志村 これはわたしが一番ノってるころですよね。封書で4・5枚書いてあるファンレターが来て、担当編集に、こんなの芳文社始まって以来ですよって言われました。最終回で、二人が会社作って大金持ちになったじゃないですか。そうしたら、ファンが「何で貧乏なままにしないんだ」って怒ったって。成功しちゃったらつまらないじゃないかって。そういう手紙が来てるって言われましたね。
――それだけハマり込んで読んでたってことですね。
志村 芳文社ではこれと『新宿夜泣き川』と、医者ものもやりましたね これは単行本になっていないですけど。

志村 『平賀源内』と『織田水軍記』のKTC中央出版は、名古屋の出版社でしたかね。『平賀源内』の方は評判になりましたね。これも資料読むのが大変でした。あと、中央出版では中部電力原発PR漫画にも関わりましたね。一週間くらい取材をしてびっくりしたんですけど、反原発の運動がすごくて、「車から顔を外にだしてはいけない。襲われたら終わりだから」って。
――日本じゃないみたいですね。

 

志村 『コンビニ・ソルジャー』は人気がありましたね。土山しげるさんのお気に入りだったんです。
――そうなんですか。土山さんは最近食漫画の大家ですね。

 

志村 あ、あと時代ものを書いた。伊賀和洋さんの絵で「裁き人端午」って時代ものも書いたんですよ。単行本も出ています。仕置人みたいな話ですね。
――他にも仕置きものを書かれてますよね。『新宿夜泣き川』とか。
志村 あーそうですね。これは5年も続いて、一度映画化の話も出ました。結局なしになっちゃったんですけど。ももなり高さんは今どうしてるんですかね。
――最近はコンビニ売りのヤクザ実録物とかでご活躍されてますね。

 

――伊賀さん作画では、ミリオン出版のコンビニ本でも原作やられてますよね。
志村 よく知ってますね。ミリオンの編集者が元竹書房なので私のこと覚えてて、「志村さん何か書かない」って言われて書いたんですが、これがすごく大変なんですよ。実録じゃないですか。資料が膨大な量で、忙しいのに読み切れないよと。それで原稿料は安いし……。それでちょっと辞めちゃいました。再録で何度か使われて、その度に稿料入ってはきますけど。

 

志村 小説の方のペンネームでは夏目秀樹というのを使ってまして、これは夏目雅子の夏目と湯川秀樹の秀樹をプラスして作った名前なんです。夏目漱石から獲ったんだろうと言われることもあるんですが、女優の方。
――こちらのお名前はちょっと気が付かなかったです。
志村 一番売れた本が夏目秀樹で書いた『ハイパー(超新星空母信濃」』ですね。4巻出ました。
――小説は、本名の名義でも出されてますよね。
志村 1冊出してますね。あれは親に「小説書いたよ」って親を喜ばしてやろうと思って。いつもペンネームなので。名前が本名なのは単にそういう理由なんです。
――小説を書かれるようになったきっかけは。
志村 芳文社の編集だった人に「独立して小説の編集プロダクション作るから君も手伝ってよ」と言われて、それで書いたんです。売れなかったら1冊で終わるよって言われてたんですけど、夏目秀樹で書いた本が売れて生き延びて、次々と出すようになったんですが、この白石書店が倒産しちゃって……。


志村 しかし、このリストにあるのは単行本になっただけで、なってないのは膨大ですからね。週に毎日〆切とかありましたから。
――そうですね。咲原名義のとかは単行本になってませんし……。麻雀雑誌で単行本になる方が少ないですからね。逆に言えばこれだけ本になったほどの人気があったということでしょうけれど。
志村 パチンコものなんかもいっぱい書いてるんですけど、さすがにパチンコものは単行本にならないですね。ちなみに一番売れたのは、むかし森さんと大阪の方の新聞で連載したんですが、それが日本文華社で増刊形式で出たやつです。10万刷って完売したって聞きました。それがたぶんいちばん売れたんじゃないかな。

 

――最後ですが、最近はどのようなお仕事などされているのでしょうか。
志村 今はシナリオとかエッセイとかの添削やってるんです。最近まで『アサヒ芸能』で連載もやってました。雑誌の方向転換にあわせて連載が終わっちゃいましたが。ちなみに、代わりに始まったのが食事の漫画で。わたしが書いていたのはエロもので、人気はあったんですが、規制が激しくなったので次回で終了ってはっきり言われちゃいましてね(笑)
――なるほど。今日は本当にありがとうございました。